LOGIN晧司さんは、間取りを説明しながら私を運んだ。建物は横に長くて、玄関から伸びる廊下の右側には寝室が二つ。晧司さんのものと、奥は私のために用意させたという。廊下の左側には、晧司さんの書斎と、ゲストルームとしても使える和室。これらの四つの部屋の入口は、途中で左右に分かれて伸びる廊下に面している。
左右のどちらにも折れずまっすぐに進むと、右手にお風呂やトイレ、左手にキッチンを見ながら、リビングに出る。キッチンの向こうには、和室と向かい合う位置に洋室のゲストルームがある。ダイニングとほぼつながった形のリビングからは、光り輝く湖を一望することができる。 「素敵……」 感嘆のため息を漏らす。ここで過ごしたら、本当に、もっともっと元気になれそう。彼はリビングで足を止めることなく、前方の階段へと進んだ。
「この別荘から見える、一番いい景色を見せてあげよう」その言葉は、誇張でも自慢でもなかった。もうひとつのリビングからテラスへと出て、手すりのところまで連れていってもらった。彼の腕の中から見る世界の美しさに、言葉を失った。果てがないかのように思える湖。緑豊かな山々。おいしい空気。時々、澄んだ鳥の歌声が天空へと昇っていく。
ずっと私を抱えている晧司さんは、重そうな素振りを見せることもなく、息を飲んで見とれる私に付き合ってくれた。
「君は、ここにいるんだ。私と一緒に。いいね?」 鳥の声にかき消されてしまうそうな小さな声。わずかに震えている。私が生きていること、共にこの景色を見ていることへの喜びと……仄見える執着。けれど、不快感や恐怖は感じない。彼が私に世界を教えてくれるなら、私の居場所はここ。 返事をしたら、後戻りはできない。私は、自分の決断を信じて「はい」と答えた。そうやって始まった、蜂蜜のように甘い生活。恋人のように愛されているわけではないけど、ほかに表現のしようがない。何か記憶の手掛かりがないかと、三か月半の出来事を振り返るたび、私はおとぎ話に迷い込んでいるんじゃないかと疑いたくなる。
入院中、映画の配信サービスを観るためだけに与えられた端末で、いろいろな映画を観た。それぞれを初めて観るものとして認識したけれど、以前の私が観たものもあったのかもしれない。昔ながらの童話を下敷きにした作品は、もとになった話の筋を覚えていた。その点についてお医者様は、「おとぎ話は、普遍的なものを包含していますからね。無意識の共通の記憶とでもいいますか……」と、とても興味深い話をしてくださった。退院の時に三冊もプレゼントしてくださった、その関係の本を、毎日少しずつ読んでいる。
日本にも外国にも童話、昔話はたくさんあるけれど、晧司さんの言動は完全にプリンス・チャーミングのそれ。今朝だって、「君がここにいる。私にはそれが何よりも大切なことなんだ」なんて……。
「ほんとかな……」 テラスでの朝食を済ませ、いったん引き上げてきた自分の部屋。ベッドに腰かけ、呟いた。今日は初めて、食器洗いもお手伝いした。終わると、丁寧にハンドクリームを塗り込まれた。「自分でできます」と言っても、彼は聞かない。私の指を、心を込めて一本一本、大切に扱ってくれるのは嬉しいんだけど……普通ではない思い入れも感じる。
彼の、指輪の跡。一人で遠くを見ている時の、悲しそうな横顔。
晧司さん。あなたが見つめているのは、誰ですか? 失われた指輪で結ばれていた相手? 私は、その人の代わりなの? あなたの心が知りたい。自分の記憶よりも。 幼い頃から溺愛している従妹に過ぎないと断言されることを、私はどこかで恐れているのかもしれない――。夕方から夜へと移る頃に、始まった行為。無我夢中で求め合い、時を忘れた。 夜中に、二人でシャワーを浴びた。それは、身を清めるというよりも、一層欲を煽るための行為だった。退院してから自分の居室として使ってきた部屋に、バス・トイレがついている理由がよくわかった。 さすがに空腹を感じ、何か軽いものを食べようという話になり、ムースとアイスクリームを思い出した。手をつないで、何も着ないで、冷蔵庫まで歩いた。 夕李が持ってきてくれたデザートを、晧司さんと、裸のままでキッチンに並んで食べる。曖昧な罪悪感は、ムースとともに舌の上でとろけていった。夕李へのごめんなさいの気持ちは、喉を通り過ぎていくアイスクリームとともに飲み込んだ。晧司さんは私の指についたアイスクリームを舐め、私は彼の甘い舌を求めた。バニラの味。この夜、彼は最初、キスをためらっていたようだけど、この時間になればもう関係なかった。 二人、生まれたままの姿で室内を歩くのは、恥ずかしさよりも落ち着く気持ちの方が大きかった。ひっそりと静まった山中。昨夜の台風が遠い昔のことのよう。 世界中に、私たちのほかに目を覚ましているものはないと思うほどの静けさ。エデンの園って、こういうところなのかなとさえ感じる。 体を隠すものは、私の長い髪だけ。口づけを繰り返し、じっと見つめ合う。キッチンでもリビングでも、もうどこで何をされたってかまわない……ただ、より深く交わりたい。燃える欲を互いの瞳の奥に読み取りながら、わざと軽いキスをする。クスクス笑って、探り合い。今夜もう一度燃え上る瞬間を待ち焦がれる。今すぐ……もう少し……我慢できない……あとちょっとだけ……吐息でくすぐり合って、熱い体を焦らし合う。 彼の胸の中心を、ぺろりと舐めた。 ね、晧司さん。 私、今夜あなたと、どこまでも堕ちていきたい――。
彼は慣れていた。この部屋で、私を抱くことに。二人の体重をしっかりと支える大きなベッド……普段一人で使っている時は、寂しくなるくらい大きい。そうだ……私は毎晩のようにここで晧司さんに抱かれていた……官能の波の芯とも言うべき部分に、うっすらと真実が見え始める。「もっと足を開いて……ん? どうした?」「恥ずかしい……」「それが、いいんだろう? こんなにして……」「アンッ……」 優しい意地悪に、甘く抗い引きずられていく。翻弄されることに悦びを覚えていく。心の防御がポロポロと剥がれ落ち、私の内面まで丸裸にされる……もう少し……もう少しだけ先を知りたいと口に出すことはできなくて、体で伝える……。足を絡め、腰をくねらせ、唇をねだる。「リン……かわいい、リン……」 言えないことも、彼は察して受け止めてくれる。心と体の会話が、完全に成り立っている。ああ、この部屋は晧司さんと私が愛し合うための場所なんだ……この体は彼にこんなにも応えている……。「晧司さん……それ、なくても、いいから……」「リン……」 薄い膜を隔てずに私の中で達してほしい……懇願する私を、彼は「いい子だから、今夜は我慢だ」となだめた。「我慢なんていや。お願い……」 何かに憑かれたように、私は願った。その行為が何をもたらすかわからないような子供でもないというのに。「たまらないな……」「あっ……あ、あぁっ」 彼は願いを聞き入れてはくれず、その代わりとでも言うように、ベッドでも何度も体位を変えて楽しませてくれた。私の羞恥心と欲望が、美しいと言いたくなるほどの完璧なバランスで剥き出しにされていく。彼が私をコントロールしているわけではなく、私自身が望み、限りなく彼を欲した。「もっと、見て……全部見て、晧司さん……」「見ているとも……綺麗だ、リン……」「うれ、し……はぁ、あん、そこ……もっと……」「かわいいよ、リン……すごいな、君のナカは……イき続けている……」「あぁぁっ、ンッ、気持ちいいっ……」 絶え間なく押し寄せる波。達して、またすぐに絶頂に追い込まれ、さらなる快楽の淵へと引きずり込まれていく。 晧司さん……晧司さん……私をあなただけのものにして……。
直接触りたいのに……直接触ってほしいのに、許してもらえない。せめてキスをしてくれたらいいのに、彼はそれもしない。服の上からなぞられる感触、世界の中に彼しか感じられないような圧倒的な存在感……。 頭の中を熱がめぐる。ここがベッドの上ではないことさえ忘れてしまう。どこであろうとかまわない、私をもっと欲しがって――と叫んでしまいそう。 晧司さんの手が、私の腰から下の丸みを撫でた。「あっ……」 彼がほんの少し力をこめただけで、私の体はガクガクと震えた。「おっと」 しゃがみこんでしまいそうになったのを、抱き止められる。こういうことが前にもあったのかどうかわからないけど、弛緩した私の体を抱えて彼は満足そう。「こっちは狭い……君の寝室へ行こうか」 頷くことしかできなかった。 前の晩以上に激しかった。彼も、私も。 部屋に入るなり、閉まった扉に背を押し付けられ、立ったままで着衣でつながった。いつ用意したのか、晧司さんはガウンのポケットに避妊具を忍ばせていた。自分の部屋を出てくる前から、私の情欲を見抜いていたのかもしれない……。「あんっ、あ、あっ……」 始まったばかりだというのに、獣のように声をあげてしまう。ベッドへ行くまでの間に体位を変えて何度も達した。息をつく間もなく、容赦なく攻められる。朝の憔悴ぶりが嘘のように、彼は回復していた。その凄まじい回復力に心の底ではホッとし、どこか恐ろしい気持ちもあり、焦点が定まらないまま私自身、彼にのめりこんでいく。 ようやくベッドにたどり着いた時には、二人とも汗びっしょり。床の上には、ガウンとワンピースと私の下着が落ちていた。
彼はバスローブからガウンに着替えていた。お昼過ぎに着ていたものよりも、体のラインがはっきりと出るタイプ。色は黒で、彼の男性的な部分を一層引き立てている。 飲み物を用意すると言ったのにそれをせず、彼の部屋の前で壁にもたれて欲を感じていたことを、ごまかす暇はなかった。私は、服の上から自分の胸を触ろうとしていたのだから……。クリーム色のワンピースは雲のようにふわふわと軽く、小さな動きでも大きく揺れる。 ガウンの下に、彼は何も着ていないように見える。全身から匂い立つような色気を、隠すのではなく強調するために、そのためだけにガウンを纏っている……そう思える。少しでも動けば露わになりそうな胸元から、目を離すことができない。ゆっくりと浮かべた笑みは、昨夜以上の嵐の訪れを予感させる。「どうしたのかな? リン」「え……」「続きを」 腕を組んで、今出てきた扉に背を預けた晧司さん。彼の意図するところがわからない。いいえ、わかってしまうのが、怖い……。「怖がることはない。ここにいるのは君と私だけだ。……さあ、見せてごらん」 彼の言葉を、頭よりも早く心と体が理解した。自分でも驚いたことに、私は彼に見せつけながら自らを官能の海へと誘い始めた。「はぁ……ん……」 全身が感じやすくなっている。早く触りたくて、恥ずかしいけれど服をずらそうとすると、「まだだ。我慢しなさい」と制止される。もどかしさも興奮の材料となり、熱が高まっていく。見られながら自分を慰めることに、戸惑いつつも悦びを感じて止まらない。焦らされれば焦らされるだけ、欲しくなる……今日、私に対して遠慮がちにしていたのも、プレイの一環だったのかと勘繰ってしまいそうになる……。「今夜は休ませてあげたかった……そのつもりでいたんだが、これでは難しいな」「あっ……」 壁と彼との間に挟まれ、体が密着した。彼が本能的に私を欲しがっていることが、押し当てられた部分から伝わってくる。
お風呂上りに何か飲み物を用意しようと、キッチンに足を向けた。カチャリと音がして、浴室の扉が開いた。「……やあ」 バスローブに身を包んだ晧司さん。髪が濡れていて、胸元にはまだ水滴が見える。漂うシャンプーの香りに誘われそうになる。 夕方から夜へと移っていく時間帯。昨日あそこまでした関係なら、私がこのまま縋りついてもおかしくはない。そうすることを一瞬ためらったのは、心の準備ができていなかったせい? 彼が具合が悪くて寝ているなら、治るまで結論を伸ばせる……無意識に、そう考えて安心していたかもしれない。「あれから、頭痛は?」「大丈夫……。晧司さんこそ、気分は?」「強い薬を飲んだから眠気はあるが、症状はもう随分といいんだよ。優秀な看護師さんのおかげだな」 確かに、お昼にはガラガラだった声も、ほとんどいつも通り。まだ数時間しか経っていないのに。「よかった。いい子で寝てましたからね。今、何か飲み物を。お部屋に持っていきます」「このまま起きてみるよ。部屋に戻って着替えはするが、このあとしばらくリビングで過ごすつもりだ」「わかりました」 平静を装った会話。彼の寝室は廊下を挟んですぐ。目で追い、今日何度か出入りした扉の向こうへと、いったん姿が隠れるのを見守った。 物足りない思い。彼の状態を考えもせず、昨夜のように奪ってほしいと欲望が渦を巻く。一夜で植え付けられたにしては、強烈。昨夜思い知らされた執着は、私が長い間に慣らされたものに違いない。彼は私が愉悦を覚える場所を知っていた。私も、彼に応えるすべを知っていた。 彼が元気になってきたとわかった途端、体内の獣が目を覚ます。ここは自分の部屋ではなく廊下なのに、どこにいるかなんて関係なく、彼に触れてほしくなる。昨夜の行為を思い出してしまう。ううん、思い出そうとしてしまう。事細かに。それより前のことは、私の頭が覚えていなくても、心と体が覚えている……。 昨夜、欲を爆発させたのは、晧司さんだけではない。私も、彼を貪った。一緒にいては危険なのは、私ではなく彼の方と言ってもいいくらいに。 もし……あの指輪の人がほかに誰か存在して、それでも私と晧司さんが愛欲でつながって離れられないのだとしたら? 私は、そういう関係を許容する人間だったのだろうか。誰とどんな関係性を築いていようと、私だけを見て、私に溺れて……そんな要求をす
後ろ姿が見えなくなるまで、見送った。夕李は、もう振り返らなかった。 彼は、「すず」と言いかけて「リン」と言い直したようだった。あれは、自分の言葉を、晧司さんの言葉に置き換えていたのではないかしら? 影野夕李。彼のことを、晧司さんも、七華さんも、多分春日さんも、以前から知っていた様子はない。夕李が私とどこかで親しくしていたのなら、初対面のように現れたのはなぜ?「あ……」 開けたままにしておいた玄関を入りかけて、ハッとした。 夕李は、私が記憶喪失だということを知っていて、今の私の前に現れた、ということになる。何の目的で? ううん、それよりもまず、私が記憶喪失であることをどこで知ったの? おそるおそる、後ろを向いてみた。 誰もいない。 夕方の衣を纏い始めた山が、風とダンスをしているだけだった。 少しの間、私は立ち尽くしていた。 いくら待っても山が答えをくれるわけもなく、ひとつ深呼吸をして中へ戻った。玄関の扉が閉まる音に安堵した。外界との扉。ほかの人も出入りするけれど、基本的には晧司さんと二人だけの空間。ここには、謎だけが詰まっているのではなく、巣穴のような安心感がある。 私は、夕李から身を守るためにここに匿われていた? まさか! もしそうだったなら、晧司さんたちは彼を知っているはずだし、ここに出入りさせるわけもない。 夕李は、ここに閉じ込められている私を救い出しにきた? それも違う気がする……。 一人で出せる答えではない。人に答えを任せるのも怖い。結局のところ、私は晧司さんのことも、夕李のことも、私自身のことさえも、データとしては何も知らないに等しい。彼らと重ねてきたあたたかな時間だけを信じてきた。 これからも、それでいいのだろうか。何かが少しずつほぐれてきている今、これまでのように心地よいものを信じているだけでは、前には進めない。かと言って、彼らがくれた優しさの根っこを疑っているわけでもない。 真実がどんな関係であろうと、晧司さんも夕李も、私
彼は小さく笑って、脇に置いてあった段ボール箱を持ち上げた。「僕に強がっても駄目だよ。詳しくは聞かないから、無理に元気な振りもしないこと。いいね?」 太陽の中に見え隠れする影。謎めいた明るさ。閉じ込められた山の中で、夏中、私を楽しませてくれた。その時間は、彼を傷つけてしまったことで終わりを告げたのではなく、なおもこんなに優しく続いている。「ありがとう」 彼がくれた言葉に、しっかりと目を見て応えた。 切れていはいない。私たちの間にある糸は、何色なのかはわからないけど確かにつながっている。ならば私は、逃げずにこの縁と向き合おう。それもまた、記憶の扉に通じているのかもしれないから。「重
退院するまで、ついにほかの親族と会うことはなかった。 別荘へ移ったのは、六月中旬のよく晴れた日。それまでは梅雨らしく、雨が降り続いていた。 時間がかかるからと、私が横になれる車が用意され、運転手は晧司さんの古い知り合いだという男性が務めた。春日雷斗と名乗った四十歳くらいの彼は、どこか、時代劇で殿様にお仕えする忍びのように思えた。晧司さんは、「当たらずといえども遠からず、だな」と笑った。 途中、何度か休憩を入れながらたどり着いた山中。開けた場所に広がる広大な湖。そのほとりに佇む瀟洒な建物は、初めて見るのにどこか懐かしく感じた。 出迎えてくれたのは、私と同じくらいの年頃の、きりっとした
夢を見た。 暗くて寒い。誰かが私の肩を強くつかんだ。恐怖が背筋を駆け抜ける。駄目。叫んではいけない。嫌悪と絶望と、覚悟。唇を強く噛んだ時、大きな音と怒号が響いて――凄まじい咆哮。意識が白く染まっていく……。「リン」 「……あ」 温かい声が私をくるむ。夏の布団の上に突っ伏して、その一部をぎゅっと握り締めて眠っていた。肩にふわりと掛けられたのは、紫色のブランケット。 「晧司さん……」 「指を噛んではいけないな。傷になる」 言われて気付いた。私は、おそらくは夢の中の恐怖に堪えるため、自分の人差し指を強く噛ん
「リン、食事の支度ができたよ」 低く、穏やかな声が私を呼ぶ。「はい、今行きます」「こちらへ運ぼうか?」 戸口から姿を現したのは、従兄の天霧晧司さん。今日も優しい笑顔。「いえ、大丈夫です。今朝はとても気分がいいので」 本心からそう言ったのに、彼は心配そう。部屋の中へ静かに入ってきて、身支度を済ませた私を眩しげに見た。「今日は本当に調子がいいんです。洗顔も着替えも、途中で休むことなく済ませることができたんですよ」 クローゼットから、服を選ぶ余裕もあった。薄い緑色のサマードレス。「それはよかった。しかし、一度に動き過ぎてはいけないよ」「晧司さん、本当に過保護ですね。もうじき、あ







